日月流るるが如し(令和7年4月10日)
最近、『禅僧は語る』(みちしるべ特別編)という冊子を手に取りました。その中に収められていた、中野東禅先生(京都・曹洞宗 龍宝寺住職)による「日月流るるが如し」という文章が、春の季節にふさわしく、やさしく、深く心に響きました。季節のめぐりと共にある仏教の時間観が語られており、まさに今こそ味わいたい内容です。
一、「青葉城恋唄」の歌詞「ときはめぐり」という表現に対して、「時は過ぎ去るものではないか」という意見があったそうですが、「とき」を「季節」として捉えることで、「巡る」ことが受け入れられたといいます。自然の四季が循環するように、「とき」という言葉にもめぐりの感覚を込められる日本文化の特質が、そこに表れています。
二、美空ひばりの「川の流れのように」や、芭蕉の『奥の細道』の冒頭「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」に見られるように、時間の流れを直線的に捉える一方で、自然の循環や人生の成熟の過程も含んだ、重層的な時間観が示されています。
三、内村鑑三の「人生の四季」では、春・夏・秋・冬を人生に重ね合わせ、それぞれの時期に特有の喜びや悲しみ、成熟があることが語られています。
人生の春ありたり。勇気勃々、希望満々(中略)春は実に喜ばしき悲しき時期なりき。
人生の夏ありたり。議論誇々、主義堂々(中略)夏は実に喜ばしき悲しき時期なりき。
人生の秋は来にけり。感涙滴々、思惟粛々(中略)寂蓼に感謝伴い、孤独に祝福あふるる。秋は実に静かなる楽しき時期なりけり。
人生の冬は来たるべし。しかれども絶望の時期にあらざるべし。また来ん春を望みつつ、過去の恩恵を感謝しつつ、父の家に還るなるべし。(仏の世界)
とくに「冬」を、希望を抱きながら過去に感謝する時期と捉える視点に、悲観ではなく肯定的なまなざしを感じます。
四、会津八一の「日々新面目あるべし」という言葉にも触れられていました。毎日を新たなものとして味わい、心を澄ませて生きること――これは、仏教でいう「正念」、すなわち「今ここ」に意識を向ける教えとも響き合っています。
五、良寛和尚もまた、老年に至ってなお、日々の中に新しい感動を見出し、子どもたちと無心で遊ぶことで、その境地を生きておられました。無心の中にある自由と仏の智慧。そうした「遊び」の精神もまた、私たちが「今」を生きるための大切な手がかりになるのかもしれません(この点については前回の文章でもご紹介しました)。
桜が咲き、やがて散っていくこの季節。私たちの人生もまた、その自然の営みと重なり合っています。流れていくようで、めぐってもいる「とき」。今この一瞬を丁寧に味わうことこそが、仏教が教える生き方なのだと感じます。
年齢を重ねたからこそ、こうした文章に自然と頷いてしまうのかもしれません。
長泉寺 住職
奥野 成賢


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