宮城県角田市にある、曹洞宗・長泉寺です。いち早く環境ISOを取り入れ、環境活動を推進しています。

 

 

    3月11日は東日本大震災が発生した日です。あれから14年が経ちます。震災によって多くの方々が犠牲となり、今なお行方不明のまま見つかっていない方々がいらっしゃいます(昨年の時点で2520名)。その衝撃は私たちの心に深く刻まれ、悲しみは今も、そしてこれからも消えることはないでしょう。
 
    宮城県ではこの日を「みやぎ鎮魂の日」と定め、各地で哀悼の意を捧げています。当長泉寺でもご供養を行い、多くの犠牲者の方々に改めて慰霊の誠を捧げてまいりました。
  
    さて、これはだいぶ前の事でHPへも掲載した話ですが(震災から4年後平成27年)、長泉寺の檀家の方で震災の犠牲となられた方のご遺体が、発生から3年10ヶ月を経て発見され、ご葬儀をお勤めさせていただいたことがございました。ご家族の皆様は、「震災で娘はもう生きていないのではないか」と諦めの気持ちを抱えながらも、どこかで生きていてほしいという願いを持ち続けておられたのではないかと思います。そして、遺骨が発見された日をご命日と定められました。その選択には、「どこかで生きていると信じたかった」というお気持ちが託されていたのではないかと感じます。
 
    『大涅槃経』生者必滅しょうじゃひつめつ会者定離えしゃじょうり理ことわりであり、誰も避けることはできません。しかし、肉体は滅びても、亡き方々とのご縁は決して消え去るものではなく、私たちの心の中に生き続けます。
    また、「天災は忘れた頃にやってくる」や、「災難のときには災難に遭うがよろしい」(良寛)という言葉があります。被災された方々にとっては何の慰めにもならず、むしろ憤りを感じることもあるかもしれません。悲しみや苦しみと向き合い、それを受け入れることは、ご本人にしかできません。
    しかし、私たち支援する者がどのように寄り添い、手を差し伸べるかが何より大切なのだと思います。その支援の形は一つではなく、多様な手立てが求められますが、真に心が救われることは決して簡単ではありません。
    記憶は時とともに薄れていくものですが、それでも決して忘れてはならないことがあります。
    「忘己利他もうこりた」――自らのことを忘れ、他者のために尽くすという教えのもと、悲しみを共にし、支え合うことが、今を生きる私たちに求められているのではないでしょうか。

 
  

 長泉寺 住職
奥野 成賢

  
    あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。ご家族皆様方のご健康とご多幸、そしてさらなるご活躍を心よりお祈りいたします。
 
    

さて、今年は 巳年です。巳、すなわち「蛇」と聞いて皆さんはどのようなことを思い 浮かべますか?正直に申し上げますと、私は蛇が苦手です。見た目や動きに対して恐怖心があるため、どうしても距離を置いてしまいます。ただ、そんな私でも蛇に対して感心する点があります。それは「脱皮」です。蛇は何度も脱皮を繰り返しながら成長していきます。その姿は、「古い殻を脱ぎ捨て、新しい自分へと生まれ変わる」というポジティブな象徴として、昔から語り継がれてきました。

  
    仏教においても、蛇は「守護」や「智慧」の象徴である一方で、「煩悩」や「執着」といった克服すべき課題の象徴でもあります。蛇の脱皮や再生という特性は、仏教の輪廻や悟りの道に通じる要素を持ち、深い精神的な意味を秘めています。巳年はこれらの教えに立ち返り、自らの内面を見つめ直す良い機会と捉えることができます。
 
    また、ことわざに関連させて言えば、「蛇足だそく」という言葉は、中国の故事に由来します。蛇を描く競争で、完成した絵に足を描き加えたため、蛇ではなくなり失敗したという話が元になっています。このエピソードは、本来不要なものを加えることで本質を損ない、失敗を招くことを戒めた教訓です。    「蛇足」には、「余計なものを付け加えることで、かえって物事を損ねる」という意味があり、物事の本質を見極め、無駄を省くことの重要性を教えてくれます。。    ※仙台市八木山動物園(八木山動物公園フジサキの杜)の爬虫類館がなくなるというので、あわてて出かけ、堂々とした青大将を描き、長泉寺の応接室に画家の及川聰子先生がヘビの絵を掛けて下さいました。毎日見ていると、白ヘビもやさしいものです。  

 長泉寺 住職
奥野 成賢

     

 

AI(ChatGPT)に「巳年」「蛇足」について聞いてみました。
 
    巳年みどしと仏教の関連巳年は十二支の「巳(蛇)」に該当し、蛇は仏教とも深い関わりを持つ象徴的な存在です。以下にその関連性を説明します。

  1. 蛇と仏教の象徴

仏教では、蛇(または竜蛇)は古代インドや東アジアの伝統において重要な象徴とされています。仏教の中で蛇は両義的な意味を持つことがあります。
守護と智慧の象徴
蛇や竜蛇は、守護神や智慧の象徴とされることが多いです。たとえば、仏教の守護神である「ナーガ(龍神)」は、蛇や竜として表現されます。ナーガは仏陀が説法した際に雨を防いだり、仏陀の教えを守ったりする役割を担っています。このイメージは、蛇や竜が地球や水のエネルギーと結びつけられることに由来します。
煩悩の象徴
一方で、蛇は煩悩や執着の象徴ともされています。仏教では、三毒(貪・瞋・痴)のうち「瞋(しん)」(怒りや憎しみ)は蛇に例えられます。蛇が威嚇し、攻撃的になる姿が怒りに通じるためです。このように、蛇は克服すべき感情や煩悩を象徴する存在でもあります。
 

  1. 十二天との関連

仏教の十二天の中では、「毘沙門天びしゃもんてん」が巳年に関連付けられることがあります。毘沙門天は財宝や武運を守護する神であり、仏教徒にとって重要な存在です。巳年にあたる人は、毘沙門天の加護を受けやすいとも言われています。
 

  1. 蛇と輪廻の象徴

蛇は脱皮を繰り返すことから「再生」や「変化」を象徴する動物とも見なされます。この特徴は、仏教の教えである輪廻転生(生死を繰り返し新しい命を得ること)や悟りへの道を象徴していると解釈されることがあります。
 

  1. 仏教行事や祈願

巳年は蛇に関連した信仰や行事が行われることもあります。特に蛇を祀る神社仏閣では、巳年にちなんだ祈願が行われ、財運や健康を祈ることが一般的です。例えば、蛇を神聖視する寺院や仏像には、蛇が絡みついた像などが見られます。
 
まとめ
巳年に関連する蛇は、仏教において「守護」や「智慧」の象徴である一方、「煩悩」や「執着」といった克服すべき課題の象徴ともされています。蛇の脱皮や再生という特性は、仏教の輪廻や悟りの道に通じる要素を持ち、深い精神的な意味を秘めています。巳年はこれらの教えに立ち返り、自らの内面を見つめ直す良い機会と捉えることができます。

 
 

「蛇足」について

  1. 蛇足の由来

「蛇足」は中国の故事に由来し、蛇を描く競争で、完成した絵に足を描き加えたために、蛇ではなくなり失敗したという話が元になっています。このエピソードから、本来不要なものを加えることで本質を損なうことを戒めた言葉です。
 

  1. 仏教の教えとの関連

仏教では「中道ちゅうどう」という教えがあり、これは「極端を避けてバランスを保つこと」を重視します。「蛇足」を仏教的に解釈すると、次のように関連付けられます。
執着の克服
仏教では、無駄な欲や執着を「煩悩」として戒めます。「蛇足」に該当するような余計な行為や欲望は、執着の一種と見なされるため、仏教の理想である無執着(むしゅうじゃく)や無為自然(むいしぜん)を損なう行為と考えられます。
 
智慧をもって本質を見極める
仏教の教えでは、物事の本質を見極める「智慧」が重要とされています。「蛇足」のように、本質を理解せず余計なことを加えるのは、智慧が欠けている状態といえます。このため、仏教的には「本来の目的や意義を正しく理解し、余計なことをせずに簡素に進めるべき」と教えられています。
 

  1. 蛇と煩悩の象徴

仏教において、蛇は煩悩を象徴する動物の一つです。特に「瞋(しん)」(怒りや憎しみ)は蛇の威嚇や攻撃性に例えられます。「蛇足」の話も、執着や過剰な行動による失敗を戒めたものであり、仏教的には煩悩の制御や智慧の実践を示唆しているといえるでしょう。
 

  1. 無駄を省く生き方

仏教では「簡素」「無駄を省く」ことを理想的な生き方の一つとしています。「蛇足」を避けることは、仏教の修行における中道や質素の実践とも一致します。たとえば禅の教えでは、日常生活や思考において不要なものをそぎ落とすことが重要視されており、「蛇足」のような行為は避けるべきものとされます。

 
 

 

 
 
    前回は少子高齢化・多死社会、そして人口減少に関して少し私見を述べさせていただきました。 まもなく今年も「お盆」の季節を迎えます(当地方は旧盆で8月ですが)。 一昔前は夏休み真っ最中の旧盆の帰省は民族大移動などと形容されたこともありますが、最近はお盆の帰省もそしてお正月のそれも様変わりしているようです。
 
    さて、最近はこれまた少子化の顕著な影響だと思うのですが、都会に出たまま郷里に戻ることなくそのまま定住される方が増え、いわゆる「墓じまい」をされる方が増えてきました。全国的な統計では10年前と比べると倍増の約15万件強になっているとのことです。コロナ禍以降は「小さなお葬式」に象徴されるように「家族葬」も増加の傾向にあり、また年回忌のご法要も簡素化される方が増えてきたと実感しております。 これもご兄弟やご親族の減少が少なからず影響しているのではないかと思われます。
    「墓じまい」に話を戻しますと、一部の報道によれば、「墓じまい」の際に法外な金銭を要求する心ないご寺院様もあるとかで唖然とするばかりですが、それはともかく時代の流れで「墓じまい」せざるを得ないご事情があることもよく理解されるところです。
 
    しかし、たとえ「墓じまい」したとしても、ご先祖様が長らくここ「角田」、菩提寺「長泉寺」にあったという事実は消えるものではなく、郷里を離れた方々がたまには帰ってみたいと思う「角田」、お詣りしてみたいと思う菩提寺「長泉寺」であり続けたいと思う昨今です。内外の清掃に心を配り、みなさまそしてご先祖の御霊が気持ちよく帰れるよう努力してまいります。
    失礼いたしました。
 
 
 
 

 長泉寺 住職
奥野 成賢

     
 

 
    いま我が国は、少子高齢化・多死時代の真っ只中にあります。少子高齢化・多死時代は、人口問題に直結しています。角田市を例にとってみますと、1958年(昭和33年)の市政施行時に約3万6千人であった角田市の人口は、いまでは2万7千人を割り込む状況となっています。(令和6年4月30日現在、人口総数26,707人)実に市政施行時から約4分の1の人口が減少したことになります。
 
 
    他方、多死時代に眼を転じてみると、私が学生時代から関心を寄せていた音楽家や俳優の訃報に接することが最近多くなり、とても寂しく、また残念に思っています。亡くなった方々は、皆なそれぞれにそれなりの年齢に達しているので、仕方のないことと言えば仕方のないことなのですが、やはり悲しく思うとともに無常なる時の流れを感ぜずにはおられません。
 
    いつまでも若いと思っていた私も今春、古稀を迎え感慨深いものがあります。
 
    
今までは 人のことだと 思うたに おれが死ぬとは こいつたまらん。

(太田南畝)。

 
 
    このようなシャレた心境にはまだ至っておりませんが、 「諸行無常」を念頭に、自分の身辺をたえず見つめ直してみたいと思っている昨今です。
 
 
毎日はつらつと登園して来る幼稚園の園児を見ていると、自然と元気が湧いてきます。「諸行無常」であるからこそ、はつらつと今日も楽しくも頑張っていきましょうと園児さんからは教えてもらっているかのようです。願わくは角田市に子育て世帯がどんどんと増えて、活気ある角田市になりますようにと願わずにはおられません。

 合掌

 
 
 

長泉寺住職

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