曹洞宗とは | 今から八百年ほど前の鎌倉時代、道元禅師が正伝の仏法を中国から日本に伝え、瑩山禅師が全国に広められ曹洞宗の礎を築かれました。 このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊 お釈迦さま釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)とともに一仏両祖(いちぶつりょうそ)として仰ぎます。 |
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宗旨 | 曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師(そし)方によって相続されてきた「正伝(しょうでん)の仏法(ぶっぽう)」を依りどころとする宗派です。それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。 そして坐禅の精神による行住坐臥(ぎょうじゅうざが)(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します。)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。 |
教義 | 私たちが人間として生を得るということは、仏さまと同じ心、「仏心(ぶっしん)」を与えられてこの世に生まれたと、道元禅師はおっしゃっておられます。「仏心」には、自分のいのちを大切にするだけでなく他の人びとや物のいのちも大切にする、他人への思いやりが息づいています。しかし、私たちはその尊さに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくってしまいがちです。 お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、その教えに導かれて、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけたならば、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」が明らかとなります。 日々の生活を意識して行じ、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方といえましょう。 |
長泉寺の歴史 | 曹洞宗長泉寺は、高源山または六国峯と号し、千葉県市川市総寧寺を本寺とする東北屈指の名刹です。 磐城国三芦城主・石川持光公を開基とし、即庵宗覚禅師を開山として永享8年(1436年)現・福島県石川町に創建されました。石川氏の篤い外護を受けて、長泉寺は洞門の僧録司と仰がれる礎を築きますが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により、ときの領主・石川昭光公は領地没収となり、慶長3年(1598年)、昭光公角田移封にともない、寺籍を角田に移転し、現在の地に長泉寺を移建しています。 以後、長泉寺は石川氏の庇護と檀信徒の帰崇とにより隆盛の一途を辿り、ついに明和7年(1770年)には洞門高位である常恒会地に列せられました。 境内はケヤキの巨木や老杉、多数のサクラ、ツツジ、フジで囲まれ、その落ち着いた四季おりおりの雰囲気が参拝者の心を和ませています。 |
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石川昭光公 | 本堂奥の霊屋(おたまや)には天正18年、初代角田邑主となった石川昭光公の木像と殉死七士像が祀られています。 殉死七士像 天文19年(1550年)、伊達晴宗の四男として羽州長井荘に於いて生まれる。幼名小二郎。小字藤四郎。 永禄6年(1563年)10月、小二郎は陸奥国石川郡三芦城主・石川晴光の養嗣子となる。年15歳。晴光の娘照子を配し、小二郎親宗と改称する。この時、伊達家より佐藤信景以下6名が随従し、石川家中となる。 永禄11年(1568年)3月、養父の石川晴光が隠居し、家跡を相続。第25代石川家当主となる。 永禄13年(1570年)2月、上洛し室町幕府将軍の15代足利義昭に拝謁する。このとき、従五以下佐衛門太夫に任ぜられ、偏諱を賜い昭光と改称する。元亀元年(1570年)、大和守に任ぜられる。 天正2年(1574年)、蘆名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡の覇権、支配権をめぐって戦う。蘆名氏の支援を受けていた白河氏が佐竹氏に大敗し、白川(白河)氏が同地を失うと、同年6月、石川晴光・昭光の三芦城への帰城が佐竹義重への服属によって実現、決定された。伊達治家記録によれば、この年10月、伊達輝宗より昭光の帰城の御祝儀として、馬一匹、奥方様には染物を贈呈している。閏11月には、実兄・輝宗が昭光を含む関係諸家の調停に奔走して蘆名氏・白川氏と佐竹氏の講和が実現した。 しかし、田村清顕は同天正2年1月(1573年12月)、須賀川勢(二階堂氏)の手切れを受けて二階堂領を攻め、さらに勢いに乗って蘆名・白川領まで攻め入っており、9月には父・隆顕が死去。また正室が輝宗と争っていた相馬盛胤の妹ということもあって、輝宗の調停に応ずることはなかった。 天正3年9月、蘆名氏は安積郡西部の大槻(郡山市大槻町)を田村勢に攻められ、10月には蘆名勢が北部の久保田(郡山市富久山町)を攻め返した。輝宗は石川氏と連携して田村氏・相馬氏の牽制を図るが、石川氏は蘆名氏を最たる脅威として佐竹氏に従った。石川氏がこのような態度をとった背景には昭光の養父・晴光が健在であり、その母が田村氏の出であった事も要因の一つと考えられる。 天正4年(1576年)、田村清顕は佐竹氏とともに蘆名方の長沼城を攻めている。 天正12年(1584年)実家の伊達氏の当主が輝宗から甥の伊達政宗へ代替わりし、蘆名氏・佐竹氏との対立姿勢を強めるようになると、昭光は伊達氏と敵対するようになった。天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、他の南奥諸大名と共に義兄の佐竹義重についた。 その後、天正17年(1589年)の摺上原の戦いで伊達氏が蘆名氏を下し、須賀川の二階堂氏をも下すと、石川昭光と白川義親はついに降参し伊達氏の軍門に属した。翌年には昭光に関東方面対応として須賀川城を与えられる。 天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に、昭光は白川義親らとともに、刀剣・駿馬等を以って政宗に託し、太閤に献じて謝してもらうよう懇願したが、秀吉に参陣しないことを咎められ奥州仕置にて、三兄・留守政景、白川義親らと共に改易され、領地没収となった。 この年の8月に、昭光と嫡男義宗とその家臣は失意のもとに戦を避け城を退出したが、老臣溝井六郎は豊臣軍との決戦を主張し、三芦城中に火を放ち自決した。 天正19年(1591年)政宗が岩出山に転封されると、昭光は政宗に謁し、志田郡松山城6,000石を賜わり、松山城に移住した。以後は伊達家に属し、御一門筆頭の家格を与えられる。 翌年文禄元年(1592年)正月、秀吉より朝鮮出兵の命が伊達家に下され、昭光も政宗に従う。文禄2年(1593年)には文禄の役に出陣する。文禄4年(1595年)に帰国。 文禄4年(1595年)7月、関白豊臣秀次謀反事件に関連し、政宗に疑いがかけられ、政宗とその家臣の妻子召し連れ、光頼の嫡男義宗もまた京都伏見に上る。そして、8月、伊達家重臣19人の連判誓詞文を提出。義宗はこのとき御一門筆頭として最初に署名がなされている。 慶長3年(1598年)10月、2,000石を加増され、伊具郡角田城を賜わる。また、義宗の文禄4年の上洛の功を以って2,000石を賜り、併せて1万石へと加増され、角田城に移住する(角田城は成実の居城であったが、上洛の後、出奔し、城を収められ、知行主不在の状態であった)。 慶長5年(1600年)7月、刈田郡白石の役に昭光と義宗が石川家中を率い参陣する。10月には福島表の戦いにも参陣する。 慶長8年(1603年)、義宗に家督を譲って、村田に3,000石賜い隠居する。しかし、義宗が慶長15年(1610年)11月に病により没し(享年34)、嫡孫・宗敬はまだ幼少(4歳)だったため、政宗の命により後見人として角田城に戻り政務を執ることになる。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に昭光は石川家中を率いて参陣した。続いて、翌年の慶長20年(1615年)の大坂夏の陣時は、昭光は病だったため、家臣の泉光理を名代として石川家中の兵を率い、伊達軍に参陣させた。 元和7年(1621年)村田にて賜った3,000石の知行のうち、2,000石賜り加増され、合高12,000石を嫡孫の宗敬に引き継ぐ。 元和8年(1622年)7月10日、角田城にて死去した。享年73。殉死者7名。 |
曹洞宗の坐禅 | 曹洞宗の教えの根幹は坐禅にあります。それはお釈迦さまが坐禅の修行に精進され、悟りを開かれたことに由来するものです。禅とは物事の真実の姿、 あり方を見極めて、これに正しく対応していく心のはたらきを調えることを指します。そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・ 心の調和をはかります。 曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのでは ありません。坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまい がちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。 道元禅師はまた、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。修行というと日常から 離れた何か特別なことのように聞こえますが、毎日の生活の中の行い一つひとつを坐禅と同じ心でつとめ、それを実践し続けることが、私たちにとっての修行な のです。 |
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定例坐禅会について(曹洞宗認可参禅道場) |
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お経を読む会 | 毎月1日と15日、朝6時より(会費は無料です。) 経本等のテキストも無料で差し上げます。 |
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