宮城県角田市にある、曹洞宗・長泉寺です。いち早く環境ISOを取り入れ、環境活動を推進しています。

 

    この 戯文 ざれぶみ を草するに当って、題名をいかに付くべきか、実は、今も大いに迷っているところです。もとより『ものがたり』でありまして、必ずしも史料に基づいたものではなく、むしろ、私の当て推量が殆どかも知れませんが、取り敢へず仮題を上記のように定め、思いつくままに、ぼつぼつ書いてみることに致しました。
    尚、ここで云う鐘とは、所謂、梵鐘一般ではなく、当長泉寺の鐘をさします。

 
    当長泉寺の梵鐘のことに就きましては、さきに「当山の鐘楼並びに梵鐘について」 なる一文を草し、昭和五十五年七月十六日の定例役員会の際、出席の役員各位に配布申し上げ、更に若干の修正を加へて、その うつ しを昭和五十五年十一月二十七日付、当寺々報に掲載し全檀信徒各位に配布申しあげてありますので、これを御覧下されば、まことに幸いでございます。
 
    又、去る昭和二十四年十二月十三日、現在の梵鐘が台山より移管されて撞初式を行った際、先住説宗方丈が、ガリ版刷りにして参列の各位に御配布申し上げた 「梵鐘の由来」なる短文が残って居りますので、ともに収録 いたしました。どうぞ御参照下さい。


    当長泉寺には、藩政時代すでに鑢楼があったことは、当寺が所蔵して居ります廷
亨三年(一七四六年)版の古伽藍図よりしても容易に想像されるところであります。尤もこのときの鐘楼は現在地の反対側、即ち山門を這入って右測に在ったと思われます。が、ご承知の通り、その後、当寺は文政十年(一八二七年)、明治元年(一八六八年)の再度に亘り失火の為全焼し、又、古記録等も殆ど伝わって居りませんので、この時代の鐘楼並びに梵鐘の様式・規模等は窺い知るべくもありませんが、とにかく文政十年の第一回火災後、長らく鐘楼は再建されずに居ったのであります。

 
 
    当山の先先住是祥方丈は明治二十七年に岩手県東磐井郡興田村龍門寺より普住された方でありますが、かかる 名刹 めいさつ に鐘楼のないことを残念に思い、大正八年 (一九一九年) 畢世 ひっせい の事業として、これが再建を発願し、自ら京都に出向いて重さ壱百貫の梵鐘を購入、かたわら浄財を募って現在見るが如き鐘楼を再建し、大正九年秋、盛大な落慶式並びに 撞初式 うちぞめしき を行い、 爾後 じご 一カ年を出でずして大正十年十月五日、世寿六十五才を以て卒然として遷化されたのであります。この鐘は、その後お寺の鐘として地区民の方々に親しまれ、除夜は言うに及ばず朝な夕なに、寺から里へと法音を伝えて参りましたが、戦争が激しくなるにつれ、昭和十八年、金属供出の憂き目にあって応召し、ついに帰ることなく、終戦を迎へたのであります
 
 

     さて 、当長泉寺の開基石川家の角田第四代(通算は二十七代)の舘主は石川宗弘公と申される方でありますが、この方が梵鐘を氏神八幡神社に奉納して郷内安全を祈願されたことが『石川氏一千年史』に記録されて居ります。即ち同史下巻三十二丁に
    「寛文元年(一六六一年)八月六日鐘を鋳る地金二百七十八貫二百目江戸ヨリ鍋屋又兵衛ヲ招キ観音堂山下ニ於テ制作し工成リ之ヲ氏神八幡社ニ納ム」とあります。 この鐘は、その後明治維新の変革に際し、官軍の進攻を恐れた家中の方々の手によって、一時、八幡神社下のお濠深く沈められたものを、間もなく引き揚げ安養寺の跡の竹藪に放置されてあったと云われて居りますが、町政施行前後、台山に鐘楼を建ててここに吊し、 爾来 じらい 、台山の鐘として町民に親しま れることになったのであります。併し時勢の推移に伴い、又、サイレンの普及によって、 いつしか時鐘としての役目も終り、其筋の指示もあって久しく鐘声を聞くこともなく終戦を迎へることになった訳でございますが、幸い、 万一サイレン故障の際の非常用ということで供出をまぬかれたことは、関係者の御努力によるものと存ぜられ、敬服に堪へぬところでございます.
 
    台山の鐘楼は至って小規模のもので、破損の度合もはげしく、追い追い危険になった為、昭和二十四年、先住説宗方丈の熱願と有志並びに篤信の方々の並々ならぬお力添へによって当寺に移管されることになり、しばらく空楼だった当寺の鐘楼に移されて、ここに台山の鐘はお寺の鐘として生れ替り、今日に至っているのであります。

    俗に「堂を見て鐘を吊せ」と申す諺(ことわざ)がございます。これは鐘の大きさと鐘楼の大きさとの間には一定の比率・公式があるという意味だと存じますが、前にも申し上げました通り先先住是祥方丈が新鋳した二代目梵鐘は百貫足らずのものであり、現在の鐘楼も当然それに釣り合った寸法で建てられたものであります。一方、只今の第三代梵鐘は用いられた地金の総量からして推定弐百二・三十貫はあろうかと存ぜられます。専門家の話では現在の鐘楼は、当然鐘との釣合は不均衡で、鐘に対し柱間で約一尺五寸せまいとのことです。のみならず現在の鐘楼は柱が杉材の為、一部は既に根継ぎしたものもあり、只今、柱の長さ十八尺の間で約八寸東へ傾いて居り、しかも、年々僅か乍らこの傾きがひどくなって来て居りまして、それ丈危険の度も増して来ている訳でございます。
    かかる次第で、早晩どうしても鐘楼を改築しなければならぬ時期が参りますが、幸い、今春の僧堂落慶に際し、近近の鐘楼改築を見越して、余剰金六百三十余万を以て主要欅材の一部を購入して、将来にお備えいただきましたことは、返す返すも有難いことに存ぜられ御礼の申し上げようもございません。
    転勤等で初めて当市に居住された方々の多くは、鐘の聞こえる町として当地を慕い、やがて深い愛着を持って下さると聞いて居ります。
檀信徒皆々様の信仰心と愛郷心とにより、適当の機会に鐘楼を改築して、三百十数年前に名君宗広公によって此の地で鋳造され、又、年輩の方々には台山の鐘として親しまれ、戦後は長泉寺の鐘として生まれ替わったこの名鐘を安全に奉安して、よろこびと感謝のうちに、朝な夕なにいつまでも鳴らし続けて参りたいものと念願して居ります。

(昭・55・11・27長泉寺護持会発行諸報告より抜粋)

    以下は先住説宗方丈時代、昭和二十四年に、所謂(いわゆる)「台山の鐘」が当寺に移管され、仝年十二月十三日例歳御開山忌に併せて撞初式を行った際、ガリ版刷りにして参列の総代・世話人及び来賓各位に配布したものの寫しである。
尚、文中、松岡丈右衛門とあるのは鍋屋又兵衛と同一人物であり、元禄年間云々は先住の記憶違いと思はれます。

(昭・58・6・13 泰弘記)

 
 
 

     本日撞初めの式典を挙げ、改めて長泉寺の鐘として、平和招来の為に再出発したこの梵鐘には、由来因縁の深いものがあることと存じますが、御覧の通り一字一句の鐘銘も彫込まれて居らず、また之に関する文献とても見当らず、誠に遺憾なこと乍ら、その詳細を知ることは出来ません。が、地方の伝説や又、 ある信ずべき筋の聞き伝へを綜合致しますと、今から約二百五十年前、即ち元禄年間に、當町の鋳物師松岡丈右衛門が、舘主石川家の命を承け、郊外野田の観音堂山に於て、精魂を傾け名鐘の製作に専念し、奥方また之を扶けて、手づから金銀等を炉鞴に投じ、遂に、口径二尺八寸、高さ五尺三寸、重量二百八十貫と云ふ巨鐘の鑄造に成功した結果、石川家に於ては、深くその労を犒ひ、この巨鐘をば八幡神社に奉納して、領内の安全、五穀の豊穣を祈顧したと云ふことであります。
    然るに明治維新の際、官軍の角田に進撃すると聞くや、當時の人々がこの巨鐘の奪取せらる のを恐れてか、社前の大濠に放り込み、水中深く隠匿したものを、更に明治某年、之を引き揚げて台山に移し、爾来、時を報ずるの鐘として、角田町民は云ふに及ばず、近郷近在の人々にも親しまれ、私共の日常生活と堅く結びつき、角田と鐘の音は離れ難きものとなってゐたのでありますが、戦争の酣(たけなわ)なるに及んで、鐘の音も響かず、終戦後の今日、 尚且つその名音を聴くことを得ず、深くも印象づけられてゐた 「台山の鐘」の名も漸く忘れられんとして、心あるものは一沫の寂しみを感じてゐたのであります。
    當寺にも梵鐘はあったのですが、戦時中金属回収の命を受けて供出し、以来、空楼のままに成って居りましたので、一は皆様の要望に應へ、一は幾分でも国家再建に役立ちたいと云ふ念願から、再度、町に御願ひ申上げた結果、角田町の御好意を得て、その移管を認められ、茲に改めて「長泉寺の鐘」として、 平和招来の第一線を承はり、威容堂々と再出発致した次第で御座います。
    願はくは、鐘の音高らかに打鳴らして、相共に情操を涵養し感謝報恩の行持にいそしみ、国運復興の警鐘ともして、歓喜和楽の国土建設に御精進せらるるやう、特にこの機會にお願い申上げます。

昭和二十四年十二月十三日
長泉寺住職 奥野説宗