宮城県角田市にある、曹洞宗・長泉寺です。いち早く環境ISOを取り入れ、環境活動を推進しています。

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

topへ.fw.png

今の私に出来ること
   このたびは方丈さんから本堂にお招き頂きまして誠に有DSC_0846.jpgり難いことと恐縮しております。西根から参りました大沼敏修と申します。なにぶんにも不慣れであります。メモを見ながらの話になることをお許し下さい。
   6年前の今日、3月11日午後2時46分私は山で薪を切っておりました。その時揺れを感じました。ご存じの通り天地が今にも裂けるような強く長い揺れでした。
   強烈な揺れの最中、土煙がもくもく。辺りが一気に暗くなり、あっという間に視界がゼロとなりました。
      「山崩れだ。終わりだ!!」
   と観念した程であります。
   視界を遮ったのは杉の花粉とわかりました。揺れが杉の花粉を一斉に大量にまき散らしたものでした。あの時の恐ろしさは忘れられません。思い出すと今でも身体が震えます。
   3.11震災が「風化している」と言われます。が、「そうでしょうか?」風化しているのではなく風化させていると私は感じています。
   6年前に戻ります。
   震災発生後、真っ先に駆けつけたのは石巻でございました。恩返しをするために軽トラックの荷台に、米、味噌、水、おにぎり、かき集めたガソリン、テント、寝袋、一輪車にスコップ、バール、斧を積み込みました。
   石巻は私が20代に4年間勤務した勤務地でありました。
当時お世話頂いた恩人、知人、友人が被災していましたし、家内の生まれ故郷でもあります。家内の肉親は、避難所に逃れていました。
   遠回りと迂回を重ね、震災発生後、六日目、3月17日にたどり着いた。その石巻は、まさに想像を絶する惨状でございました。
言葉にならず耳を疑い目を覆うばかり
      「ここに人の暮らしがあった?」
   とはとても信じられない現実が目の前にありました。
   北上地区では、土台の石、基礎コンクリートの一欠片も残らない、まるで月のクレーターを思わせる惨状でございました。それを見た時、唇はワナワナ、膝はガクガク思わずその場にしゃがみ込んでいました。恐ろしくすざましい津波の破壊力。
   地獄絵図より、もっともっとむごい有様でございました。
   北上地区に続きまして向かった先は、旧北上川河口に近い川沿いの住宅地でございました。
   ヘドロの掻き出し作業の手伝いです。かつての同僚たちも駆けつけていました。そこのお宅は木造二階建て一階には茶室もある和風住宅で大正生まれのご夫婦がお二人で住んでいたお宅です。
   一軒だけぽつんと残っていました。
   出迎えてくれた息子さん「親父も母ちゃんも避難所では終わりたくねぇ。ここで死ぬ。の一点張り、仕方ないんでさらっとリフォームして、立ち退きになるまでの間だけでもと思いまして・・・。うちは門の前の物置が波きりの役目をしたんですよ。ご近所は津波をもろに受けました。うちだけ残っちゃって・・・」と疲れ切った表情で話してくれました。
   私たちは見るのも聞くのも気の毒で、辛くて胸が苦しくなるばかりでした。
   ヘドロの掻き出し作業は家の中から手をつけました。どの部屋もヘドロだらけコールタールのような黒いドロドロの中にありとあらゆる物がおもちゃ箱をひっくり返したようにごちゃ混ぜとなっていました。
   息子さんが言います。「家の中の物は一切合切がれき置き場に捨てて下さい。品定めは無用にお願いします。はかどりません。訪問着?帯?もう着れない。捨てて下さい。
   花入れ?茶道具?教室は閉鎖。もういりません」。
   「そんなの見せだら、また、オイオイ母ちゃん大泣き、もう聞きだくねでばホントにかまねがら遠慮しねで全部出してもらって結構です」と声を張り上げます。
   私どもはそんなヤケになった息子さんの顔をまともに見られず横を向いていました。そんな訳で家の中の物は何もかもすべてがれき置き場に積み上げました。
   ヘドロの掻き出し作業二日目です。
   私は内心、「こんで、石巻立ち上がれるかな」と案じながらスコップを運んでいますと、スコップの先が「カチン」と音を立てたので、思わず作業を止め、しゃがんでヘドロの中を見ました。音を立てたのは焼き物のお地蔵さんでございました。それも次から次とひーふーみーの三体が続けざまに現れて参りました。
   どれも子猫ぐらいの大きさのお地蔵さんです。それを見て「地獄で仏、本当なんだな」と思い、軍手を外し素手でお地蔵さんをつかんでバケツの水でチャプチャプすすぎました。
   よく見ると、色、形、大きさはまちまちです。でもどのお地蔵さんも素朴で優しい顔をしていました。この場面では息子さんを手招きしました。
   私が濡れ縁に並べたお地蔵さんを一目見た息子さん
   「あ、母ちゃん作った手作り地蔵!物置に残ってたんだ。粘土をこねて釜で焼いてみんなに配ってたんです。人様にくれ散らかすのが趣味でこの物置に釜があるんです。さてと困ったな」と腕を組みます。
   この時、元同僚の誰かが「物置に残ってだぁ!!。それじゃ波きり地蔵だべー。あの大津波から家を守ったんだ。瓦礫?罰あだっと!!」と息子さんを睨みます。「だめ、だめ、だめ、絶対だめ、母ちゃんに見せたらオイオイ三日は泣いてる。うーん。どうすっぺ。あっそうだ!!この地蔵さん。大沼さんのスコップにぶつかったんだから責任取って角田さ連れてって下さいよ。頼みますよ。やっぱり瓦礫バチあだる」と息子さん。三体のお地蔵さんを私に託しました。
   ヘドロの掻き出し作業はいったん中断。北上川の水をバケツに汲んでもう一度ヘドロを洗い落としました。そして首のタオルと腰の手ぬぐいで包みまして、軽トラックの運転席にお移り頂きました。
   ・・・このお地蔵さんが、その波切り地蔵です。残りの二体は、留守番をお願いしました。後ろに「愛」と有りますが、愛子さんと言う方が作者です。どうぞ手に取って、ご覧下さい・・・
   石巻から角田にお連れして参りましたお地蔵さんは庭先に鎮座してもらいました。「花も供えないとな」と思いまして裏の竹藪に適当な竹を探しに行きました。竹の花入れを作るためです。目に止まったのは孟宗竹でした。細身、立ち枯れのさび色、節の間隔がつまった竹でした。その竹を揺すってみますと「グラグラ」と根元が動きましたので、オシ、道具なしで倒っせかなと思い、力を加え、揺すりますと「バキッ」と根元で折れてしまいました。「しまったやはり道具をもってこればなー」と悔やみながら竹の根元に目を移しました。すると竹の中に祈りの姿が現れました。
   ・・・この竹がその時の竹です。どうぞ手に取ってご覧下さい。ささくれひげ根は私が整理しましたがお姿は殆ど手を加えていません。
   なお竹藪から生まれたものでございまして、私は勝手に藪地蔵と呼んでいます。藪地蔵との出会いは「偶然」と思っていましたが、その頃からなぜか?、枯れ木、竹の根、朽ちかけた木に目が止まるようになりました。
   山仕事に行く度、それらの枯れ木を持ち帰り、木子屋に大事にしまうようになりました。なお我が家は明治に建てた蚕農家でありまして、雨漏りに耐えきれず屋根こそ葺き替えましたが、その他は明治のまんまでございます。今も庵に木をくべ暖を取っていまして薪の確保は私の大事な仕事です。
   木小屋が枯れ木だらけになったそんな時に、南三陸町志津川の総合防災庁舎で殉職されました遠藤未希さんのニュースが耳に入りました。
   自分の命を顧みず避難を呼びかける「叫び」に胸を打たれまして、何とも痛ましい。魂を鎮めないとと、いても立ってもいられない気持ちになりまして気がつきますと木小屋の枯れ木に手をのばしていました。その枯れ木をなたで切り、彫刻刀で削り遠藤未希さんの鎮魂像を仕上げました。出来たのは震災の年の6月末の事でした。遠藤未希さんの鎮魂像を作ったのがきっかけとなりまして、拾い集めていた枯れ木を日毎夜毎削ることになりました。
   私は、学業は0点いたずら満点の悪童でございまして、ごしゃがってばーりいました。子どもをおどしつける時のうちの親の決まり文句は「神仏を尊び、神仏に頼らず」に始まり、「このぬわどり、なんぼ言ったらわかんだ、そごさ座れ!!、ずごくにおどされっぞ!、針のむしろに座らさっれぞ、石の皮むがさっれぞ、べろ抜がれっぞ!味噌漬けてくわれっぞ!このたがらもの!!」と続きました。
   地獄がこわくてたまらず少しはおとなしたものです。でも信心深くはなく、ご先祖様と神棚に手を合わせるだけのぶじょほうな者でございます。
   そんな私が「安らかに」の思いを込めまして、こつこつと彫刻刀を握り続けておりましたところ、震災から3年目には鎮魂像は300体ほどになりました。
   そんなある日娘さんを津波で亡くされた70代のご夫婦が石巻から訪ねて参りまして、奥様がある像の前で足を止め「娘にそっくり、戻ったみたい」と涙を浮かべ喜んでくれました。
   この像は松の木を削ったもので木は朽ちていました。その朽ちた部分を削り落としまして一心に彫ったものでした。実際は私が作ったと言うよりも風雪と蟻さんムカデ君がかじって作ったものでございました。
   自然が作る線はとっても素敵で惚れ惚れします。とても人間の手では出せないライン、あの天才ミケランジェロも脱帽するような像でございました。その像を奥様は「是非」と申しますので私は喜んで差し上げました。その後、礼状が届きまして「おかげさまで娘と一緒に居る気持ちになれて、今は趣味の手仕事も出来るようになりました。やっと笑えるようにもなりました」と結ばれていました。この礼状に力が湧きました。土に帰る木がご遺族の力に、「良し続けるべ」と、もともと短気で飽きやすく細かい仕事は大の苦手の私が「安らかに、どうか安らかに」と念じながら一人静かに彫刻刀を握り続け千体を目指しました。震災から4年目には千体に届きました。
   ところが千体達成のこの日、目を疑うことが起きました。「三劫三千仏(さんごうさんぜんふつ)」と言う難しく聞いたことも無い文字が目に飛び込んできたのです。方丈さんのおられる場で、まことにおこがましく恐れ入りますが続けさせていただきます。
   「三劫三千仏」とは、
   三劫。この三劫の劫は「未来永劫」の劫であります。つまり、過去現在そして未来の三劫に、それぞれ千体ずつ、合わせて三千体の仏をあらわすことで、衆生つまり下々までみんなが往生できるとの教えでございます。ご存じの千体仏は、平安の貴族の方が自分一人、己のみが極楽往生すべく彫らせた物とありました。
   日本歴史小百科『彫刻』と言う本に書かれていました。この本は私を陰で支えていてくれました、博識の先輩が古本屋で偶然見つけて私に届けてくれた本でございます。
   この時先輩は、頭を抱えるだけの私に「千まで来たんだ、三千まで続けねどな、無駄になる。震災の犠牲者はみんなが往生できる。ご遺族の癒やしにも。材料はすんぺすんな、枯れ木を集めればいいんだべ、まかせろ、おまえはただひたすら削り続けろ。「安らかに」の思いを込めてさ。一体一体に。下手で良い。思いを込めればきっと伝わる。犠牲者も浮かばれる。三千めざせ!」と肩をたたいてくれました。そして震災発生から5年間。おととしの夏には2千5百体を数えるまでになりました。
   少し、肩の荷が軽くなった丁度その頃、たしかお盆の時、福島から年配のご夫婦が訪ねて参りました。
   偶然とおりかかって立ち寄ったとの事でございました。一通りご案内をしまして、帰り際になった時、奥様が「何体お作りに?」とおっしゃいましたので「はい、三千体でございます」とお答えしました。その答えに奥様は怪訝そうな顔で「えっ三千体?。二万体ではなくて?」とおっしゃいます。私は金縛り。頭の中は真っ白、思考停止、声も出ません。
   奥様は静かに真剣な眼差しで「震災の死者、行方不明者それに震災関連死の方々を集めると犠牲者は約二万人と聞いております。二万体彫っていただけないの?」と私の顔を見つめます。立ち尽くすだけの私。奥様は、そんな私に頭を下げまして「どうか娘の分も、実はまだみつからなくて」と、声を振るわせます。無言の私。何も言えませんでした。
   我に返ったのはお二人の車が出た後でした。車のナンバーを目で追い、いわきナンバー。ご遺族か?「がんばります」と言えねがった。2万は無理だし、約束は出来ねし、んでも嘘でも良いがら「なんとかがんばります」
   と言ってやればいがったなー。あんなにがっかりすねで帰れたべなー。んでも声がでなかった。「なじょしたら、いがったんだべ」と、ため息の一日となりました。この日から、耳の奥に「どうか娘の分も」との声が聞こえてなりません。その度に「数に拘るな、祈りを込めて、ひたすらでいい」と自分に言い聞かせました。そして彫刻刀を握りますとなぜかその声は消えてくれました。夜なべ仕事を続けましてこの年の12月17日三千体となりました。しかし、達成感は湧きません。ふと手元の像に目を戻しました。三千体目の像は萱材でございました。萱材をくれた方は私の友人でこの年の秋、突然亡くなった大工さんです。そうだ。まず大工さんに三千体達成を報告しねど、あれ、49日にあたり日、いつだっけ?とカレンダーを見るとあたり日は12月18日でした。「あっ、明日だ、線香立てねど」と我に返りました。
   翌日、早速参上。お位牌に報告を致しました。その帰り際、大工さんの息子さんが「親父が拾ってたクルミなんです。このクルミでなにか出来ねべか?」とクルミを持ってきたので有りがたく頂いて帰りました。家に戻りクルミを割って中の身を取り、ふとクルミの殻を見ると
   割った断面に手を合わせる姿が見えました。その姿におもわず頭が下がり「あーおほどげさん、続げっからないん」と自然に声が出ました。クルミの中の姿を発見した時に二万体を目指す決心がつきました。
   この日から、迷わずただひたすら彫刻刀を握り続け、今現在「3.11鎮魂像」は5千二百体を数える事になりました。
 省みますと絵も描けない図画工作の通信簿は、お情けの「2」。日曜大工20170215160319-DocuCentre-V C2276(326012)-7251-170215160324.tif.jpgは不得手不器用の見本。その私を突き動かしたのは自分の命を省みず避難を呼びかけた遠藤未希さんの「叫び」でありました。そしてまた津波で娘さんを亡くされたご遺族から届いた手紙とご遺体がまだ見つからないご遺族の悲痛な言葉が、自分自身予想だにしなかった2万人におよぶ尊い命を奪った3.11の犠牲者と同数の鎮魂像を目指す力となりました。
   今、現在5千体を超えたとは言え、残るは遙か彼方、気が遠くなりそうです。とてもとても生あるうちに達成はかなわないと存じます。しかしながら、言葉では上手く言い表せない不思議な縁によりまして、彫刻刀を手にする事になった者のつとめとして一体でも多くの鎮魂像を作ることが御仏の導きにかなうものと思います。
   そしてそれが犠牲となりました方々の魂を鎮め、ご遺族の悲しみを少しでも和らげる事になるのならこれに勝る喜びはありません。精進を積み重ね、ひたむきに歩めばいつの日かきっと2万体に届くかもしれません。その時まで諦めず彫刻刀を握り続けて参ります。合い言葉は「忘れない。二万の思いとたましいを」それが今の私に出来ることでございます。
   つたない話に耳を傾けて頂きました皆様に対し、心から感謝申し上げまして、おわりと致します。誠にありがとうございました。

topへ.fw.png