宮城県角田市にある、曹洞宗・長泉寺です。いち早く環境ISOを取り入れ、環境活動を推進しています。

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鐘を撞くという事(平成29年4月5日)

   おはようございます。
   先日、鐘をつく撞木を吊している鎖が切れて朝夕の梵鐘を1週間ほど休ませていただきました。ご周知の通り、現在の梵鐘は2001年に21世紀平和祈念鐘という名称で新しく鋳造した梵鐘です。
   ですから、計算をしてみますと2001年から2017年まで16年間梵鐘をついて来た撞木の鎖ということになります。今回どうした拍子か鎖が切れ、皆様方にはご迷惑をかけましたが、1週間のお休みをいただき新しい鎖に換え撞木を吊り直し、また朝夕鐘を鳴らしております。
   ところが撞木が梵鐘にあたる角度や位置が今までと変わったのか、どことなく鳴りがいまひとつ思うように鳴りません。あれこれ工夫しておりますが、まだ一定の音色で鐘を鳴らせないでおります。申し訳ないことだと思います。
   考えてみればその日の天気、温度、湿度、あるいは撞木を振り上げ振り下ろす力の具合、また撞く人の感情と申しますか心の置きどころの具合で鐘の音色が違うように思います。ともあれ毎日同じような音色と響きで鐘を撞くという事は大変難しいことだとつくづく感じております。
   さて道元禅師が著した『普勧坐禅儀』には「坐禅は習禅にはあらず」という有名な言葉が出てきます。この言葉は「坐禅とは戒・定・慧の三学の定の坐禅ではないぞ。また六波羅蜜の禅定の禅ではないぞ。悟りを得ようとする坐禅でもなければ心を静めようとする坐禅でもないぞ。」という意味でありましょう。
   そうであるが故に、いはゆる禅定と言われるような習禅を離れてさらに正伝の坐禅を組むと言うことはなかなか私どもには難しいことです。むしろほとんどが習禅の気持ちで坐禅をしている有様ではないかと自省するばかりです。
   朝夕毎日鐘を撞いていても同じ音色で鐘が鳴らない。毎日行じていても同じ坐禅ができない。難しいことだと思います。しかし、だからこそ毎日鐘を撞き、毎日坐禅を組む理由もそこにあるわけです。
   先年、おかくれになられました永平寺の宮崎奕保禅師は、「毎日がまねごとの坐禅だとしても一生まねごとの坐禅をすれば本物の坐禅になる」とお示しされました。ですから、やがて本物の坐禅になるかどうかは毎日のこの日々の勤めの日にあると私もそう信じて生きている次第です。
   桜の花も綻び始めました今年も佳い季節が巡ってまいりました。






長泉寺住職

奥野 成


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